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土偶とは

 土偶は縄文時代を代表する造形物である。縄文の草創期から晩期まで、長きにわたって造られ続け、日本列島の各地から出土している。東北地方北部から北海道南部にかけての亀ヶ岡文化圏からも、数多くの土偶が発掘された。
 土偶のほとんどが女性を思わせる造形であり、乳房や腹部、臀部が強調され妊婦を彷彿させる。そのことから、縄文人にとって土偶とは多産や豊饒を祈る地母神崇拝のための人形だったという説もあるが、私はもっと踏み込んで、新生児を産む若い女性を表現したものではないかと考えている。土偶の背後には生身の女性の存在が感じられるのだ。
 土偶の女性は、新生児の誕生を切に願う女性である。縄文人が新生児は祖先の生まれ変わりであると信じていたとするなら、懐妊とは祖霊が女性の身体に降りてくることであり、逆に不妊とは何らかの障りにより祖霊が降りてこないことを意味する。そういう時代にあって土偶とは、懐妊を願う女性の形代(かたしろ)であり、その表情は、祖霊が天降り歓喜するさまを表しているように思われるのだ。

腹部に見られる文様の意味は

 土偶といってもさまざまな形状のものがあるが、いずれの形状のものも、多くは頭頂が開口し、胴体には口(胸元)と臍をつなぐ一本筋や三本筋が施されている。日本の考古学者はこれを「正中線」と呼んでいるが、この正中線なるものが何を意味しているかについて、明確な説が提示されていないのが現状である。
 臍につながる筋といえば、臍の緒が思い浮かぶのだが、土偶は新生児ではなく成人の女性を表したものであるとするなら、臍の緒が明確に示されているというのは腑に落ちない。だがそこで思い浮かんだのが、縄文人は蛇をトーテムとする民族だったのではないかという考えであった。
 蛇をトーテムとする論拠としては、男根が蛇に見立てられたからとする説が主流を占めていたのだが、私としてはそうではなく、臍の緒が蛇に見立てられたからに違いないと思い至ったのである。蛇をトーテムとした縄文人は、臍の緒そのものに蛇である祖先の姿を見ていたのではなかったろうか。
 さらにいえば、臍の緒が蛇に見立てられたからこそ、人は蛇から生まれ出て、死ぬと蛇に還るという蛇トーテム信仰が誕生したのかもしれない。ヒンズーの教義で、腹の底に雌蛇が潜むとされる深層にも、出産時の臍の緒があると考えられる。
 また多くの土偶を観察する中で見えてきたのは、口と臍のつながりを表す正中線には、神道でいう「いき通し」の概念の根本が表されているのではないか、ということであった。



さまざまな土偶の造形

隠された甲骨文字

 津軽や下北、南北海道から出土した亀ヶ岡文化期の土器や土偶には、殷の時代に発明された甲骨文字に由来するとしか思えないような文様が見られる。
 青森県三戸町から出土した八日町土偶を例に話を進めると、両乳房の下部に施された文様は、唐草模様のように思えるかもしれないが、甲骨文字「」(虫、真虫=蛇)の字形を知れば話は別だ。どう見ても、唐草模様より「」に近いと思えてくるのだ。同様の文様は後頭部左右や両肩、背にも存在する。さらに後頭部中央と臍の周囲、背の下部には、2つの「」が絡み合った甲骨文字「」(まつわる)さながらの文様が見られる。
 ただこれだけで「土偶には甲骨文字由来の文様が刻まれている」とするのは早計であるが、「」「」という甲骨文字が意味するところは、筒型土偶で具象的に表現された「蛇」と「絡まる蛇」に一致している。

 そうなるとやはり話は違ってくる。亀ヶ岡文化期にこの地に渡来した殷人から甲骨文字という文明を得て、土偶における表現が、具象から抽象に変化したという驚くべき出来事があったのではないか。また実際に、2つの筒型土偶で個別に表現されていた「蛇」「絡まる蛇」という概念が1つの土偶に表現されたのならば、甲骨文字を得たことにより土偶に書き込める情報量がアップしたとも解釈できる。





(以上 第3節「土偶の造形が伝えるもの」より)