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唯一無二ではなかった縄文

 縄文後期(4000年前~3000年前)の筒型土偶と似通った石偶が、ルーマニアのヴィンチャ文化の遺跡で発掘されている。ヴィンチャの石偶は7000年前のものとされるが、ヴィンチャ文化の遺跡からは同時期の土偶の頭が出土していて、その顔つきはどう見ても蛇を象ったものとしか思えない。なおこの時代のヨーロッパではおびただしい数の女性を象った土偶が造られていて、それを「妊娠した植物の女神」「鳥と蛇の女神」などと命名する学者もいるという。
 また中央アジアから渡来したといわれ、青銅器時代から鉄器時代にかけては、アイルランドやイングランドほか、広くヨーロッパに居住したケルト人の馬具には、玉抱三叉文や太極図そのものというべき装飾が施されている。
 太極図の図柄を構成する2つの勾玉のような形は、自然界やさまざまな生命体に潜むエネルギーの根源とされた雌雄一対の竜を意味する。雌雄の竜が、互いの口で互いの尻尾をくわえているのは、終わりが始まりにつながるという永遠性を示している。すなわち太極図とは、陰陽の絶妙な働きにより森羅万象が滞りなく運行されるという宇宙観を表現したものなのである。
 蛇をトーテムとする蛇崇拝と祖霊回帰の考え方は古代中国、インドや縄文に共通するものである。太極図もまた、この同じ考え方の下に成立した図柄であると思われるが(白川静によれば、竜は蛇と同義である)、ケルト人の馬具に太極図や玉抱三叉文そっくりの装飾があるのは、単なる偶然の一致として片付けていいものだろうか。
 中央アジアをルーツとするケルト人が、中国やインド、そして日本の縄文とも、蛇をトーテムとする蛇崇拝と祖霊回帰の考え方を共有していて不思議はない。しかしそれ以上に、その考え方が人類の祖先がアフリカを離脱して以来のものであるなら、なおさら不思議はないはずだ。ルーマニア・ヴィンチャ文化の蛇の形相をした土偶の頭部も、造られた根本には蛇崇拝が存在したと思うのだ。
 実際問題、蛇を祖霊と考え、その再生を信じた縄文人が遺したものと非常に似通った遺物が、世界の各地から発見されている。一般に縄文の造形は、世界にも類のないユニークなものと理解されているようだが、実際はむしろ逆で、縄文の「蛇」というモチーフが世界普遍のものに思えて驚くばかりだ。


古代オリエントにおける蛇崇拝

 ギメソポタミアでは、1万年前に農耕が始まり、5000年前頃には青銅器や文字を使用するシュメール人の国家が誕生した。
 シュメール王朝初期のギルガメッシュ王の物語には、永遠の生命の源となる海草を手に入れたギルガメッシュ王が、狡猾な蛇にその海草を横取りされ、失意に沈むという話が記されている。
 海草を食べた蛇は、脱皮を繰り返すことにより永遠の生命が手に入ることを知るのだが、脱皮を繰り返す蛇は不死であるという言い伝えは、世界の各地で信じられている。「蛇が脱皮により生を繰り返す」という発想には、「蛇である祖霊が新しい命への生まれ変わりを繰り返す」という縄文以来の考え方と相通じるものがある。
 旧約聖書には、エデンの園を守るため神からそこに配されたアダムとイブが、禁断の果実である「知恵の樹」(生命の樹)の実を食べたことから、神の怒りを買いエデンの園を追放されるという話がある。
 実はこのとき、禁断の果実を食べるようイブを誘惑したのは知恵の樹にいた蛇であり、この旧約聖書の物語の舞台はメソポタミアなのである。
 一方、地中海地域では4000年前頃から交易による港湾都市の発展が見られ、やがてクレタ島を中心にミノア文明が興隆する。当時のクレタ島は典型的な母系社会でもあり、女性と蛇が人間を創り出したと信じられていたという。両手で蛇をつかむ地母神像「蛇使いの女神」が造られるなど、蛇崇拝が顕著であった。
 そしてギリシャ文明において、ビーナス像が盛んに造られるようになるのだが、ビーナスは多産を象徴する地母神像の流れを汲むもので、その背後にはミノア文明以来の蛇崇拝が潜んでいる。またギリシャ神話に登場する医学の神アスクレピオスは、死者を蘇らせるほどの医術をもっていたというが、施術の際、つねに蛇を伴ったとされている。これは蛇が死と再生の象徴だったことによるものだろう。
 この話は、「アスクレピオスの杖」として図案化され、今も「医」のシンボルとして用いられている。アスクレピオスが使っていた杖に1匹の蛇が絡みついたデザインであり、世界保健機関(WHO)をはじめ、医療機関のシンボルマークとして広く流布している。





(以上 第6節「蛇崇拝は世界の言葉」より)